宿屋に駆けつけたのは、一刻も早く二人に出会い、体勢を整えるため。二人がまだ来ていないかもしれないということは、当然想定の範疇にあった。しかし、明々とマジェンタに染まる宿屋は全くの想定外だ。レンガと木で出来た星のきらめき亭は今や星々ではなく、熱波を轟かせる火炎の軍勢にその身を明け渡していた。間近で宿屋の女将が膝を崩してうな垂れる。恰幅のよかった風体は、今やその面影もない。あまりにも非情な人生は、女将に一匹の犬を与える。毒の牙を持ち、狂った瞳で飛び掛るケルベロスを。
「逃げて!」
野良犬の頭を掌底で叩き落とし、懐から抜いたダガーを脳天に突き立てる。脳漿がじゅくじゅくと嫌な音を立てた。死の危機が迫ったというのに、女将は熱波に焼かれた顔を呆けさせ、立ち上がろうとしない。宝の宿屋が焼け落ちたショックで、生に絶望しているのだ。大切に営んできたであろう宿屋が燃え落ちた今、そう感じるのも無理もない――
無理もない?
本当にそうなの?
じゃあ何故私の胸は、こんなに熱いの――!?
振り切った手はしびれとともに乾いた音を立てる。同時に、女将の顔が右に振られ、右頬が赤く染まった。
「生きるの!何がなんでも!絶望してる暇があるほど、命に余裕なんかない!」
逃げて!渾身の叫びが喉から迸る。頬の痛みか、若しくは私の絶叫が老婆の瞳に色を戻し、膝に強靭な力を与えた。
今のは、今までの私には無い言葉だった。命に悩みながら、命を軽んじてきて、仕方ないなどと諦めて、命を蹂躙してきた私の台詞じゃなかった。これを与えてくれた人が誰だか、私は知っている。小さな緑の身体に、精一杯に命を秘めた彼女。今炎に蹂躙されつつある、私のヘンリエッタ!
「たゆたえ、盾なるもの!宝氷は汝が御手より承らん!アイスシールド!」
詠唱しながら唸りをあげ、崩れかけたドアに体当たる。容易くぶち破り、ロビーへと転がり込んだ。身体の周りを巡る氷球が火炎を遠ざけ、周りの温度を下げる。しかし、広がり続けるばかりの炎に、いつ効果が切れるか分からない。焦りと遮断しきれない熱波で、額から、頬から、うなじから、汗が滴り落ちる。異常に薄い呼気が体力を低下させ、ロビーを舞い踊る黒煙がめまいを引きこした。手探りで階段に足をかけ、昇ろうとしたそのとき。
獰猛な唸り声が、口を大きく開けて階段の最上段から飛び掛ってくる。私は気力だけで飛びのいて距離をとり、その姿を確認して絶句した。大柄な体躯は赤く、犬の形状でありながら熊を連想させる。鋭い牙が見え隠れする口の端はよだれの変わりに溶岩を滴らせ、前足も後ろ足も、赤く輝く炎に包まれていた。その名はフレイムハウンド。本来なら洞窟の奥深くで格下のモンスターを捕食しているはずだ。この東南部には生息するなんて聞いたことも無ければ、人里に出てくることは前代未聞。異常に炎の広がりが早いとは思っていたがこんな化け物が居るのならそれも頷ける。集中が切れ掛かったアイスシールドが、熱波を防ぎきれなくなってきている。呼吸はますます切迫し、めまいはさらに深刻になる。だからといって、この赤い熊が待ってくれるわけはない。ケルベロスとは比較にならないプレッシャーを撒き散らしながら、こちらに飛び掛る。私はそれを紙一重で避け、至近距離からアイスミサイルを撃ち込む。はずだった。
「熱っ!」
開いた口腔から迸る至極の火炎は私のシールドを悉く吹き飛ばす。前髪はちりちりと音を立て、纏ったマントはぼろぼろに黒く焦げあがり――息が!息ができない!
シールドを失った私に、熱波が津波のように襲い掛かり、呼吸を完全に阻害された。目の前も見えないまま私は急激に押し倒された。かろうじて開いた右目は、フレイムハウンドの大顎を捉えている。ぼたぼたと垂れる溶岩は、私の顔の横で床に穴を開けた。私はこのまま、こいつに食われるんだろう。大顎を開けて、私を捕食しようとするのは目に見えている。だったら――
左手一本くれてやる!
「集え、剣なるもの!」
大きく上げた口に向かい、私は一瞬速く左手を喉の奥まで突っ込んだ。焼ける腕の痛みを気にしてる余裕なんて無い!
「烈氷は汝が御手より承らん!アイスソード!」
フレイムハウンドの喉の奥で凝固する圧倒的な冷気は強靭な氷の剣を形作り、そのまま赤犬の延髄を貫いた。フレイムハウンドはカエルの拉げたような声を喉の置くから搾り出して、全身を小刻みに震わせる。どうせくれてやった腕だ、最後までもらっていけ!
「司るは氷結の命!しじまなる時を刻み込め!アイスボール!」
あふれ出る氷結の空間に、赤犬の体内は小さすぎた。大柄な体躯は断末魔の悲鳴も許されず内部から爆発する。その全てが瞬間で冷却され、燃え上がっていたはずの赤い肉片は、カキ氷のシャワーとなって燃えるロビーに散らばった。涼しげなのもつかの間、背中には先ほどと変わらぬ熱波と圧力を強かに感じて――これは、違う!
声が!出ない!
背中から全ての感覚が消えうせた。脳裏で過剰にリフレインする熱量が、絶え間ない絶叫を私の口から搾り出す。もう一匹いたフレイムハウンドが私の背中に飛び移ってきたのだ。耳元でぐるぐると唸るその声までもが異常に熱い!背中の皮が爛れる音が心臓からつま先まで響く!
死ぬ、かな。
――そんな、馬鹿な、話が、あるか!
「瞬け!青銀(あおがね)の三日月!」
魂の奥底から引っ張り出した命への渇望が、絶叫を止め、暴れる氷を呼び出す。
「氷帝(エチリン)の抱擁は我が手にあり!」
全身から迸るは、舞い踊る妖精だと言われた氷属性最上級魔法。
「アイスウェーブ!」
私を中心に舞い踊る氷の妖精は、あらゆる熱気をずたずたに引き裂いた。その氷の羽一枚一枚がフレイムハウンドの全身をむさぼり、食い散らかす。傷口から凍りつき、凍りついた傷がさらに切り裂かれ、毛並みの良い身体は一瞬にして無残なぼろ雑巾となり、氷結して砕け散った。部屋を渦巻いていた熱気も、壁を行進し続けていた炎も、熱源の消滅とアイスウェーブの効力で落ち着きを取り戻してきている。だが、呼気と眩暈が正常に戻っても、身体にうけた甚大なダメージが、私の能力を完全にそぎ落としていた。
「あとちょっと、だから。もうすこしだけ頑張ろう」
焼け石に水の回復魔法を魔力の続く限りかけて、私はよろよろと階段を登った。黒こげて、まだ熱を残している壁によりかかりながら、2階の奥の私達が取った部屋へ移動し、ドアを開ける。部屋のダメージは思ったよりも少なく、テーブルの上に置かれたヘンリエッタも、あれほどの騒ぎがあっても緑の身体をぴんと伸ばしていた。「気付かなかった」とでも言っているようだ。私は安堵し、そのために崩れる膝を止めることが出来なかった。
「よかった。本当に」
以前の私なら、何を馬鹿なことを、と一笑に伏せていただろう。空の宝箱を大事に抱えて、大切なものを守っているつもりになって、虚無感に浸って悲劇のヒロインを演じていた私では。
大切な物は作り上げること、守ることが大事だと彼女は教えてくれた。まさか死にかける羽目になるとは夢にも思って居なかったけれど。
「まぁ、貴重な体験よね」
気丈に笑って、私は震える膝で無理矢理立ち上がる。何時崩れるともしれないこの場を早く離れないと。瓦礫を支えにして、左手で鉢を抱え込み、立ち上がった。埃と灰を浴びて真っ白になったテーブルに身体を預け、出口へ目を向ける。
急に、悪寒が走った。火傷した背中に、風が触れたのかもしれない。爛れた皮膚は、僅かな空気の流れにも敏感で早めに治療しないとこめかみに皺ができそう――
「嘘、でしょ――」
絶望が混じる呟きは、巨大な叫び声がかき消した。私の目の前にある青い顔はびっしりと固い鱗で覆われており、緑のたてがみと、白い角が優雅ともいえるほどに飾られている。だが何より圧巻なのはその体躯だ。この2階の崩れた壁から顔を出すそれは、私の何十倍もの全長を持つモンスター。氷帝の竜と呼ばれ、あらゆる氷魔法を受け付けない洞穴の支配者。その名はキングウォーム。
勝てるわけがない。魔力も底を尽き、身体も満足に動かない今の状況じゃ、つつかれただけで死んでしまう。神様、何が悪かったっていうの?二人を待たずに勝手に行動したこと?教会を破門された私には、彼女が不相応だとでも?どちらにせよ、貴方が死ねと云うのなら、全力で生きてから死んでやります!
キングウォームの頭が唸り声を上げて私へと突っ込む。私はヘンリエッタを庇うように抱いて、訪れる死の衝撃を前に目を閉じた。必ず、彼女だけは守り抜くと誓って。
死の訪れは、しかしやけに遅い。金属の打撃音が聞こえた気がして――
「ごめん、遅れた」
「ザント!」
筋骨隆々の腕でバーブスピアを携える長身の女性は、間違いなく砂時計の似合う彼女だった。挨拶もつかの間、キングウォームは耳朶を揺るがす叫びを上げる。宿屋を崩しかねない力のある叫びだ。恐らく食事を邪魔されたことに怒り狂っているのだろう。しかし、巨大な竜の絶叫を見てもザントの身体は微塵も揺るがない。それどころかその顔は興奮に引きつり、笑っているかのようだった。
「リーメル、ブレスと火!」
返答もせず、私は残りの魔力を、エンチャントに込める。神の祝福で身体能力を向上させ、炎王(エブリン)の命で槍に炎を灯した。ザントの腕の筋肉がひときわ盛り上がる。それを知ってか知らずか、キングウォームは若干首をひき一撃に備えた。ザントは腰溜めに構え、つりあがった瞳を殺意で染める。
キングウォームの首は予備動作もなく、弾丸のごとき勢いで飛んできた。一撃で宿屋の2階ごと弾かれかねない勢いだ。しかし、ザントの一撃が異常に素早い。体躯を回転させ遠心力を利用した斬撃は、漆喰の壁を引き裂き、柱を叩き切り、なおも加速してキングウォームの首に食らいつく。飛び散る体液で部屋が緑に染まり、部屋の中で迸る絶叫が、鼓膜を一瞬だけ麻痺させた。半ばまで食い込んだ槍は、キングウォームが暴れたために炎を残したままずるりと抜け落ちる。
「ヘンル!」
ザントの叫びに呼応して、流れ出るのは柔らかなフルートの旋律。何時の間にか部屋の隅に現れたヘンルーダは、深い森を詠うような曲を、銀色のフルートから奏でる。この曲はよく知っている。タイトルは不治(アンヒール)。その名の通り、モンスターの再生能力をストップさせてしまう死の音色だ。キングウォームの傷口は、槍に宿った炎が燃え移り、派手に侵食されはじめた。傷口を駆け巡る痛みに弱弱しい悲鳴を上げて、きびすをかえすキングウォーム。
「逃すか」
小さく殺意を吐き出して、ザントは投槍の姿勢を取る。全身をバネのように引き絞り、筋肉の撓む音が聞こえるほど力を溜め込んで――― 一気に開放した。異常なスピードで射出された槍は、まるで砲撃のように炎で赤く輝いた。人間業とは思えぬほど寸分たがわず傷口に命中し、威力を爆発させる。キングウォームの首は捻り切られたように飛び上がり、胴体は力なく倒れ、砂地に緑の体液をぶちまけた。
これが契機になったか、モンスターの気配が一気に村から引いていく。あたりには平穏が訪れ、ザントは疲れたように溜息を吐き出し、ヘンルは柔らかな笑顔で私を見やった。
「二人とも、ごめん。そしてありがとう」
本来なら上がるはずの村人からの歓声は無い。しかしそれでも、二人への感謝と、命を守れたことの喜びがここ最近で一番の幸せを運んできてくれた気がした。
私の謝罪を聞いて、ヘンルは思い出したように眉間に皺を寄せる。あ、これは小言が来るな。私は思わず、大声で笑ってしまった。
「笑ってる場合じゃないでしょ!危険なのに一人で突っ込んで――」
「ごめん、ほんとごめん。だから――」
今はとにかく、寝させて。
薄れゆく意識の中、私は久しぶりに、綺麗に笑えた気がした。
おひさしぶりの更新です。陸堂です。
後編ですが、ここで終わりではありません( ´・ω・`)
ちょっと予想以上に戦闘ががんばりすぎまして、エピローグまで盛り込めませんでした。
後日エピローグをアップしますのでそれで終わりとなります。
どうかもう少々お付き合いください。
陸でした