頬がほんのり上気したリリルの口のすべりは、しかし肝心なところを漏らしてくれない。彼のどこがどう好きで、どういう瞬間に惚れたかとか、そういうことはいくらでも惚気てくれるのだが、私たちが最も知りたい彼の所在や名前、職業等になると途端に口を閉ざした。
「で、結局誰なのさぁ」
最初は乗り気で質問攻めだった那魅も、頑として口を割らないリリルに辟易としてきたようで、空の徳利を摘んでぷらぷらと弄んでは、雫だけが残るお猪口を舐めるように呷っていた。
リリルは悩むように、少し首を傾げたあと、渋々と切り出した。
「――じゃあ、明日一緒に彼を見に行こうか」
そんな展開で訪れたのはパゴール掲示板通りの商店街だ。数々の露店と店舗がひしめき合うこの通りは、パゴール中央広場の掲示板から北に伸びる道で、日中の騒がしさを表現するに、喧騒の二文字では全くもって満ち足りない。日用雑貨から戦闘の必需品まで幅広く売り買いを行うこの通りはパゴールの活気を象徴する中心部と言って差し支えないだろう。
「ふあー。太陽が気持ちいいねぇ」
私はこの喧騒に乗せるように声を上げて、青く広がる空へ両手を挙げた。
「はー。頭ががんがんするねぇ」
那魅はこの喧騒を恨むように呟いて、億劫そうに長い銀髪を掻き揚げた。
飲みすぎなんだよ。とは口には出さなかった。二日酔いの酔っ払いほどたちの悪いものはない。
「貴女は飲みすぎなのよ」
そんな私の気遣いを知ってか知らずか、リリルはわざわざ口に出してくれる。ありがとうございますリリルシール様。多分この嫌味は通じないだろうからまたまた私は苦笑いを浮かべただけで口をあけなかった。
「よく存じ上げておりますのでいちいち言わないでください。――それで、リリの想い人ってここに居るの?」
「そうよ。もうすこし先に居るわ」
その台詞に那魅は少し元気になって笑顔を浮かべる。行きますかと言わんばかりに足を踏み出した。
待ち合わせでもしているのだろうかと最初は思ったが、ここは人数が多すぎて待ち合わせに適してるとは思えない。気になるのは彼女が昨日言った「見に行く」という台詞だ。現時点では「会わせる」といえないほど親密な仲ではないということなのだろうか。だったら、この界隈の商売人?でもそんな人の中でこの一風変わった女の子の目に留まるような人が居たっけ――
「ほら、あそこ」
その台詞に私と那魅は電光石火で反応する。
彼女の掲げた指の先には、丁寧に陳列された野菜を爽やかに売りさばく男性があった。年のころは30半ばほどだろうか。大きな声で客を呼び込み、売り買いをてきぱきとこなす中にも笑顔を忘れない様は昨日今日の商売歴でないことをまざまざと見せている。すこし褐色に焼けた肌が、笑顔を引き立てていた。確かにかっこいい彼は、この界隈で買い物をする客なら大概知っている。八百屋“エルマ”の店主、リュート。思わず目をやる眉目秀麗な看板店主もさることながら、良質な野菜を提供する彼の店の評判は良い。新進気鋭の八百屋だと評判だ。
「ちょっとまってよ。リリ、ほんとに彼なの?リュートさんなの?」
周知と言われたこの事実を那魅も当然知っておきながら、彼女の表情は不安と戸惑いで一杯だ。
「そうよ。今、私の好きな人」
声をわずかも揺らさずリリルは自信を持って応える。その台詞にますます那魅の表情は理解不能の色に染まり、二日酔いの気色を駆逐していく。
私は那魅が困惑してる理由を知っている。だって彼は――
「彼、結婚してるじゃない!」
ここまで知っている私たちなら、当然彼の店“エルマ”の名が彼の妻エルミーナの愛称から来てることを知っている。ついこの間、5周年のお祝いをやっていたとギルドの仲間に聞いた。一緒に店頭に立つことも多く、その仲睦まじさも店の人気の一つだ。
「知ってるわ。それくらい」
それがどうかしたの、とでも言いたげに見えるほど、目の色は冷ややかだ。那魅はその返答が信じられないように、口をぱくぱくさせていた。私は落ち着いて詰まらせないよう台詞を吐き出す。
「確かに、その人を好きになるのに、結婚してるとかしてないとか関係ないよね」
「関係大有りでしょっっ!」
私の小声の意見は那魅の大声に霧散された。怒号のような那魅の大声は、周囲のお客を動揺に巻き込む。那魅は注目されている様子に気づいて、慌てて居住まいを正した。そして過剰なほど小声になった那魅に、私とリリルは耳をそばだてる。
「だって、好きになるってことは一緒に居たいってことでしょ?抱かれたいってことでしょ?結婚してる相手にそれを求めるのはすごく大変な――」
「別に求めてないわ、そんなこと」
那魅の小声を、リリは鋭利な言葉ですぱりと切り落とす。続けざまに飛び出す台詞も、彼女らしく鋭利で冷ややかで、そしてどこか寂しげだ。
「久しぶりに抱いた好きだという気持ちだもの。私はそれを大事にしたいだけ。彼のことが好きだから、彼の幸せな今の生活を邪魔するつもりも壊すつもりもないわ。そういう愛の形もあるんじゃないかしら」
私は何もいえなかった。そういう考え方があるんだなと驚かされる一方だった。那魅も同じようで、喉から出したいけれど出せない言葉にもがいて、うめいている。リリルは二の句の次げない私たちを一瞥すると
「――お野菜買ってくるわ。待ってて」
ローブをはためかせて、愛する彼の元へ歩いていった。
「やっぱり、私には納得できない。理解もできないししたくもない」
リリルの家で水炊きを囲んで乾杯した開口一番、那魅がそう漏らした。訊くまでもなく、今日のことだろう。私はやれやれという思いで、那魅を嗜める。
「恋愛の形は人それぞれでしょ。納得できないこともあるよ」
「恋愛の形が人それぞれ!?だったらそんなもの存在しないも同じじゃない!」
私の言い方が勘に触ったのか、那魅はグラスの底をテーブルにたたきつけた。鈍い音がやけに鋭く自己主張する。まだほとんど飲んでもいないのに、もう酔っているのだろうか。
「あたしは今まで、必死に恋愛してきたよ!そりゃ意見が食い違うことも、裏切られることもあったけど、挫けず恋愛してきた。それはその人のそばに居るのが幸せだったから!安らぎだったから!リリはそうじゃないっていうの?私は違うって?あたしからみれば、そんなの恋愛じゃない!おままごとだよっ!」
「那魅!言いすぎだよ!」
那魅の声はもはや怒号に等しい。どこから沸いたのか見当もつかない彼女の熱い激昂を、リリルは冷たい憤激で押し返す。
「私からしたら、自分の幸せばかりに目が行って、相手の幸せに目を向けない貴女の方がおままごとよ。相手の笑顔を、相手の幸せを邪魔せず手助けするのが本当に相手を思う心じゃないの?貴女の独りよがりな恋愛が、常に相手を傷つけてきて、それが自分に跳ね返ってきたっていい加減気づいたらどうなの!」
湯気を噴く水炊きも豊穣な香りを立てるお酒も眼中になく、二人は一触即発の状態だ。放っておいたらお互いに武器を抜きかねない。ああもう、楽しいリリルの恋愛観察の予定だったのになんでこんなことになっちゃったんだろうか。
私はもうやけくそだった。
「あー!美味しいなぁ水炊き!」
一等でかい声を張り上げて、熱々の水炊きの味を主張する。臨戦状態の那魅とリリルは、ぽかんと口を開けて呆気に取られていた。
「リメ、今それどころじゃ――」
「二人がぎゃーぎゃー言ってるからもうかなり煮立ってるよ。ほら那魅食べな。野菜もお肉も美味しいよ」
那魅は無理矢理の私に戸惑いながら箸をつける。おいしい、と呟いてはいたが、困惑気味なその顔を見る限り、味がわかっているようには思えなかった。
「リメ、ここははっきりさせ――」
「ほら、リリル。リュートさんの作ってくれた野菜を無駄にはできないよね」
うっ、と言葉に詰まり、リリルは渋々箸をつける。それから二人の間には鍋の煮立つ音以外、静寂が流れ続けていた。
お猪口を呷った那魅が、思い出したようにゆっくりと口を開ける。
「――昼間、リリの話を聞いたとき、すごくショックだったんだ。あたしの今までの恋愛観が全部否定された気がして。あたしのしてきたことって何だったんだろうって。そしたら感情がもう抑えられなくて・・・」
うぅぅと呻いたあとに那魅の目尻から雫がこぼれた。抑えきれない激情が涙に変わってしまったらしい。それを見て、リリルも箸を置く。
「私もそばに居られなくて平気なわけじゃないの。すごく胸が苦しくなる夜もある。その度に、近づいていけないのは相手のためだからと言い訳して――いつもストレートに表現できる那魅が羨ましかった。だから売り言葉に買い言葉でつい・・・」
リリルも引きずられたように目を潤ませる。この流れでお互いから出てくる言葉は一つだ。
「「ごめんなさい」」
この後はいつも通りのどんちゃん騒ぎだ。リュートさんについての情報交換や、那魅の恋愛経験談。また凝りもせず同じ話を繰り返す那魅を、しかし今日のリリルはきつい言い方もせず、頷いていた。多少、面倒そうではあったけれど。
二人の恋愛観のわだかまりも解け、お互いの意見を交流しあった結果、良い方向に向かいつつあるようだ。気軽に談笑するリリルとリュートさんもよく見かけるようになった。
しかし、今回で一つだけ最大の不満がある。
私、空気じゃん。
――はぁ、恋愛したい。
饅頭でも落ちてないかなと、思わず下を向いて歩いてしまう私だった。
おわり
いやはや。だいぶ前に思いついた続きネタをやっと消化できて万歳。
青臭い話で楽しいです。最近恋愛トラブルあったからちょっとストレス発散になったかな。
陸