私は高校時代、思うように英語を体得することが出来なかった。その際、言語は文化そのものだから学問として学ぶことには無理がある、などと自己弁護したものだ。数学のような“学問”ですら人並みに理解しきれていなかった私が言う台詞ではないというのに。
しかし、言語は文化、という言葉は自己弁護で思いついたにしては的を射ていると思う。何を当り前のことを、と感じるかもしれないが、単なる情報伝達の道具としてしか接することのできない母国語と、授業という形でしか接することの出来ない外国語に囲まれた私達には聊か馴染みの無い言い方のはずだ。我々は言語をその種類別の単体で捉えたことはあっても、言語そのものを問題の中心に据えたことはそれほど多くない。学校教育の批判をするために書き出したわけではないから、そこに言及するつもりはないが。
さて、私は英語を理解する場合、それを日本語に置き換えて理解するようにしていた。数多くの中学生、高校生が経験してきた過程だと思う。sadは悲しい、excitingは興奮する、など置換によって、未知の言語を理解しようとしたはずだ。これは因数分解など、数式の形を変えて解くという遣り方に似ている。理解し辛いものから、理解しやすいものへと置換する方法だ。
だが、上述したように、言語は学問ではない。文化である。この置換という作業は、他国の文化を自国の文化のフィルターにかける作業になるのだ。すると自国の文化で理解可能な部分と理解不能な部分がふるいわけられる。そのふるいわけられた理解不能な部分は所謂語感という奴だ。例えば、laughは笑うという動詞だ。そしてsmileも笑うという動詞で、chuckle、grin、ridiculeも笑うという動詞だ。これを全部笑うというフィルターで通してしまえば、全て同じ意味で理解してしまう。だが同じなわけがないのだ。無駄な単語を作り上げるほど、言語の洗練具合は中途半端なものではない。
確かに辞書を引けば、smileは微笑、chuckleはくすくす笑い、grinはにこっと、ridiculeはあざ笑うとあるだろう。しかし、あざ笑う、はやはり日本語だ。ridiculeには成り得ない。「ridicule」の角を削り、溝を埋めて、「あざ笑う」の形にしなければ、それは依然として無意味のままだ。
だからこそ、言語を理解する際は、ridiculeをridiculeとして理解できるようにならなければならない。あざ笑う、という言葉は必要ではない。彼はridiculeしているのだと直感することが出来なくては理解に到達しえない。しかし、日本人の誰がインドのカレーを手で食べることができようか。日本人は必ず、手をスプーンだと考えて食べる。日本ではカレーはスプーンで食べるものだから。しかしインド人は紛うことなく手で食べるのである。手で作ったスプーンで食べるわけではない。
こう考えるたび、私の胸は哀愁で満ちる。いくら尊敬するルバイヤートを読もうとも、それを日本語に翻訳したものしか読むことができないのでは、ペルシア風の日本に思いを馳せることが限界なのだから。