乾いた音だけが連続してこの空間―――薄暗く、客の少ないトレーニングジムに響く。袋に詰められた砂はその身をひしめき合わせ、悲鳴を搾り出した。
打ち付ける拳にも、伸ばしきる腕の筋肉にも、もう痛みは無い。実戦で使えるのかどうかと尋ねられれば、口を閉ざす他は無いが。
「リハビリは順調かい?」
ちりぢりの頭髪を掲げた褐色の肌の男はジュースを片手に俺へとさわやかな笑みを向けた。着こなしたスーツは内側からはち切れんばかりに膨らんでおり、腰掛けた椅子は全身から悲鳴を発している。そんな巨体でありながら、スーツがやけに似合っているのが意外と言えば、意外だった。
「少なくとも、あんたのダイエットよりはな」
シニカルに口の端を吊り上げて、俺はその巨漢―――ゲイル・マクミールへと笑いかける。ゲイルは、そいつは結構なことで、と若干ばつが悪そうにコーラをテーブルへ置いた。とは言え、飲むのを控えたわけではなく、単純に中身が無くなっただけだろう。その証拠に、ゲイルは次のジュースを袋から取り出した。
袋に描かれたロゴは某有名ファーストフード店のものだ。俺はあの咀嚼し辛いパンと味気ない肉で作り上げたハンバーガーに人気が出る理由がいまいち分からない。料理が出てくるまでの素早さが好ましいと、日向は好んで食っていた。名前からして、それさえ売りであれば良いのだろうか。
サンドバッグに拳を打ち続ける俺の横でゲイルは包装されたハンバーガーを取り出した。一際大きくがさがさと音を立てて開いた中からは、矢鱈と大きいハンバーガーが出てくる。肉を五つも挟んだそれには流石の俺も目を疑った。
「今の店はそんなものを置いているのか?」
ゲイル専用メニューとしか思えない異様な質感を持った物体はこの地域の住民の肥満度数を挙げるに十分な効果をもたらすことだろう。俺が開発者なら、コストの面から鑑みても没にするのだが。
「まさか。オーダーメイドさ」
得意げに微笑むや否やゲイルは大口を開けてハンバーガーにかぶりついた。常人なら顎が外れていることだろう。俺は開いたままだった口を塞いで再びサンドバッグに向かう。フィオラとは違う意味で食欲をなくしてくれる男だ。見てるだけでこみ上げてきた胸焼けを吹き飛ばすかのように、俺は先ほどよりも速く、速く、無言の標的へ拳を叩き込む。風を切る音を増やし、汗を左右へ迸らせ、ゴム底の靴で床を鳴かせ、只管突き入れる。
「で、何の用だ?まさか態々俺を見舞いに来たわけでもないだろ」
少し強めに捻り込んだ一撃はサンドバッグを大きくきしませながら跳ね上げる。それを契機に、俺は揺れ続ける砂の振り子に背を向けてゲイルと対峙した。
左手の手の甲には僅かな違和感が残っている。それが気後れから来るものなのか、再生が不完全である警告なのか、判別は不可能だった。できることなら前者であってもらいたいものだ。楽観視は出来ないことであれども、そのために仕事を降りれる状況でもない。二ヶ月近くもの間、入ってきた仕事はどれだけ美味しいものでも怪我の療養のために断ってきたのだ。これ以上ブランクが空けば腕が落ち、仕事の依頼も減ってしまう。例え中途半端な回復であっても、踏み切るしかなかった。
荒々しげに腰を下ろされた椅子は、痛そうな声を上げる。ゲイルは袋からLサイズのジュースを取り出して勧めてきたが、断った。グレープフルーツジュースなら、筋肉に良いから飲もうかと思ったが、生憎コーラのような炭酸物は胃が張るから好きじゃない。ゲイルは僅かに肩を竦めて、コーラを自分の方へと寄せた。
「相方の色男はどうしたね」
ゲイルは辺りを見回すふりをした。居ないことに今気付いたわけでも無いだろうに。
「色男には、色男なりの事情があるらしいぞ」
あいつの行き先なんぞ知らない俺は、適当にはぐらかす。ゲイルはそれ以上追求するようなことはせず、床に置いていたアタッシュケースをテーブルの上に置いて、開けた。中から出てきたのは山吹色の封筒―――やはり、仕事か。
「怪我も完治というわけではないのだろうが、仕事は仕事だ」
お前が行ってくれないと俺が駆り出されてしまう、とゲイルは溜息を吐き出す。
「いいじゃないか、久しぶりに前線に出たらどうだ?元Sランカー“巨獣(ファットビースト)”」
Aランカーの査定官を生業とするゲイルも、数年前までは現役のSランククエスターだった。何を原因として第一線を退いたのかは、査定官としてのゲイルしか見たことがない俺には知る由も無い。柔和な風貌と性格で近所の評判も良いゲイルがクエスターだったという話すら嘘に聴こえるのだから、引退の理由など想像がつくはずもなかった。
ゲイルは勘弁してくれと手を振り
「今はペンキ塗りのゲイルおじさんだ」
微笑み混じりに呟いて、二個目の特大バーガーにかぶり付く。食いっぷりだけは、未だに二つ名に負けていないな。
嘆息しながら俺は封筒の封印を外し、中の書類を広げた。そして書類の内容に目を剥く。驚愕は一瞬で済ませたつもりだったが、ゲイルには軽々と見破られたらしく、広げた書類を覗き込まれた。
「ロインツ・ロッテン同盟側について三陣戦争で戦え、だとさ」
ティグナシー大陸ロンドン地方のロインツ・ロッテン同盟は、同大陸ブリスナー地方ティターン国と、同大陸シア地方クロケット国との混合戦線を展開している。それは四大陸中最大の激戦地であり、三陣戦争と名付けられた。こんなところに俺みたいな病み上がりを送り込むだなんて、上の方は何を考えているんだろうか。今回もご丁寧に封筒に名前を書いてきた派遣業務管理部部長補佐バロック・ミルドとかぬかすクソ爺が俺を殺したがってるのかもしれない。くそっ、ちょっと行って先に殺してやろうか。
今にも誰かを殺しそうな顔をしているに違いない俺を心配そうに眺めるのはゲイルだ。ハンバーガーを咀嚼する口も止まっている。
「代わりに行ってやろうか?」
―――何だと?まさか、俺がそんなに臆病に見えたというのか?
俺は途端に、腹の底から怒りがこみ上げてきた。ゲイルにじゃない。たかが怪我くらいで気後れしていた俺自身にだ。俺は唇を噛み締め、ゲイルを強く睨み付けた。
「死にたいのか?」
俺は大仰に胸を張って、自分より高い位置に顔のあるゲイルを無理矢理見下す。
「ペンキ屋はペンキ屋らしく壁に落書きでもしてろ。戦場で死ぬのは、戦士の仕事だ」
しゃしゃり出るな、デブ。そこまで一気に言うと、ゲイルは目を丸くして唖然とした。少しの間を空けて、ゲイルは可笑しそうに高い声で笑い出す。
「デブのペンキ屋の仕事は落書きを消すことだ。自分で書くもんじゃあない」
ゲイルは笑いながら訂正し、そして再び、瞳に悲しみを讃えて俺を見据えた。
「生きて戻って来い。死ぬには若すぎる」
聞き飽きた台詞だ。だが、耳朶に響く感触はいつでも心地良い。
「安心しろ。俺が今まで、一度でも死んで戻って来たことなんてあったか?」
くだらないジョークを交えて、俺は書類を纏めて席を立ち上がった。そのまま、汗臭いジムの出口へと歩き出す。
「帰ってきたら、また飲もうじゃないか」
背中に掛かってきた喜びと憂いの混じる不思議な声に、俺は手を挙げ、応えた。
「お前が少しでも痩せたらな」
振り返りもせず、俺はジムのドアを開ける。外の爽快な風が、鼻腔に溜まる汗臭さを吹き飛ばしていった。
大丈夫だ、生きて帰れる。
何故なら、そう思うことが一番大事だから。
降り注ぐ日差しの中、俺は騒がしい街中へ歩き出した。
久しぶりのDiaboliaは番外編ともいえる幕間です。王者の剣で負傷した魔狐兎のリハビリから、次の仕事へ移るまでの間の話です。
魔狐兎の次の仕事はクエストファイル4・祈りの鉄鎚に収録される予定です。
まだクエストファイル2なので先ですねー( ´・ω・`)
はやくファイル3の神討ちの槍も書かないとねー( ´・ω・`)
外伝も書かないとねー( ´・ω・`)
陸でした(つД`。)